こんばんは。さとーん(@satooon_blogger)です。
今日は、
「禍福は糾える縄の如し(かふくは あざなえるなわのごとし)」
についてお話します。
不幸を嘆いていると、いつの間にか幸福となり、幸福を喜んでいると、また不幸になる、ちょうどそれは「より合わせた縄のように表裏が交互にやってくる」ということを表しています。
TRANS.Bizより
新型コロナウイルスによって変わったもの
新型コロナウイルスが日本に上陸して、もうすぐ一年が経ちます。
この一年で、今までのライフスタイルや仕事のあり方、人生観ががらっと変わりました。
ライフスタイル
今までは週末になると、家族で県内・県外あちこちに出かけていました。
「せっかくの休みなのに遠くに出かけないのはもったいない」
という、日本人特有の考えです。
コロナ禍は、この考えを180度変えてくれました。
基本的に外出自粛生活になったので、週末は家で子どもたちと漫画を読んだりゲームをしたり、近くの広場や公園で遊んだりするようになりました。
今更ながら気づいたのは、子どもたちはどこで遊んでも同じくらい楽しんでいるということです。
結局、今までの自分は「家族のため」と言いながら「自分がしたいこと」ばかりしていたのかもしれません。
生活圏内で一日中子どもと向き合っていると、イライラすることも増えます。
でもそのイライラは、本来ならもっと早くに経験して受け入れなければならなかったものです。
コロナ禍は自分の内面を見返し、反省する機会を与えてくれました。
仕事のあり方
「仕事が生活の中心」という考え方はゼロになりました。
仕事は、家族や趣味やブログ執筆と同じように重要ですが、人生の柱ではなくなりました。
幸いにも僕の努めている工場は、ほとんどコロナの影響は受けていません。
給与が下がることもなく、ありがたいことに賞与も例年通り支給されました。
しかし巷では、給与減額・賞与カット・人員整理といったニュースを目にします。
こういうときに思うのは、
「社員に滅私奉公を強要しながら、いざというときには雇用の調整弁として使うのが会社」
なんだということです。
会社はいろいろな意味で社員を必要としているのかもしれません。
でも、社員の人生に責任を持とうとは考えていません。
コロナ禍は、そんな会社や社会のドライで冷酷な部分を浮き彫りにしました。
コロナで売上が落ちて、経営状況が苦しいのかもしれません。
給与や賞与だって、本当は払いたいけど払えないのかもしれません。
だったら、平時のときにこそ備えておくべきです。
滅私奉公をさせるのではなくて、会社がいつどうなっても社員が困らないように、「私」という個人を生かした組織を作っておくことが必要です。
会社に頼らない・会社が頼らない社会であれば、このコロナ禍ももっと違ったものになったかもしれません。
人生観
「人はいつ死ぬか、本当に全く分からない」ということが分かりました。
コロナ禍で、家族と過ごす時間が増えたおかげで、家族の一人ひとりの未来を考えることも増えました。
「家族がみな健康に天寿をまっとうできますように」
とはいつも思っていますが、人生そんなに甘くありません。
今回のコロナでも多くの人が亡くなりました。
コロナが流行しなければもっと長生きした方もたくさんいたはずです。
僕自身も、自分の明日明後日のことなんて分かりません。
今まで頭では理解していたことですが、今回のことではっきりと分かりました。
「未来のことなんて誰も分からない」
まとめ|悪いことばかりじゃない
コロナはたしかに世界にとって大打撃です。
でも、個人個人で角度を変えてみると、意外と活かせることもあります。
僕の場合は
- 浮いたお金でブログを始めた
- 浮いた時間でブログ執筆
- 趣味「ブログ」
となりました。
多分、コロナが流行しなければすることはなかったでしょう。
会社のような大きな組織だと方向転換も容易ではないですが、自分や家族だけなら方向転換は簡単です。
禍福は糾える縄の如し。
良いことも悪いことも代わる代わるやってきます。
コロナが過ぎ去って平穏な日常が戻ってきたときに、思いっきり人生を楽しめるように、良いことに目を向ける意識を今から養っておきましょう。
では。